
「地球の果てまでつれてって」★★★★☆
横尾 忠則 (著)
サルバドール・ダリを見た日の事
霊体となってドアを通り抜けた事
蟻の超能力につき考察する事
UFO搭乗に誘われなかった事
柴田錬三郎氏の死に茫然とする事
全21章の「事」を収録。
なかでも「サルバドール・ダリを見た日の事」がすごく読み応えがあっておもしろい。
この章は横尾忠則VSサルバドール・ダリだと勝手に思っている。
『今、生きる秘訣—横尾忠則対話集』に、「日本の芸術家は岡本太郎だけだ」とダリが言ったことが書かれている。
これを読むと、岡本太郎の凄さが分かる。
ダリは横尾忠則の絵を見もしないで大嫌いだと言い放った。
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多田さん達があんまり遅いので、どうしたのだろうと思って一階に降りていくと、まだ入口ですったもんだやっているではないか。写真を撮るくらいで、わざわざ女館長がダリ本人にいちいち電話して、交渉しているのだ。あんまり交渉が長びくので多田さんも半ば諦め、「もう写真なんかいらないよ」と、かなり頭に来て怒っている。この間一時間。そして、まだ回答が得られない。通訳してくれていた松尾さんがついに最後の切り札を出した。
「われわれはスペイン政府の招待で日本から来たのだが、写真を撮らせてくれなければそれでもいいんです。しかし、後で問題がこじれても知りませんよ!」
と凄んだもんだから、なにしろ政府に弱いダリ、いっぺんにOKしてしまった。それだけではない。松尾さんは「ダリにも逢いたい」と強引に申し出た。驚いたことにダリはわれわれに逢ってもいいと言ったのである。信じられないことが起こったのだ。まるで奇蹟だ、夢だ、とわれわれ三人は天地が逆さになるくらい仰天した。
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八時だといっても、まだ昼間と明るさはちっとも変わらない。しかし、ダリの言いなりになっていると、何時になるかわからない。多田さんが、「横尾さんの作品集を渡せば、もしかしたら逢えるかも知れないですよ」と、次第に不安になって、最後の切札のつもりでそう言った。再び、運転手に頼んでダリに作品集を届けてもらうことにした。
「ガラ夫人が逢うと言ってますから、どうぞ中へ」
急に態度がガラっと変わった。
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王座のソファーに腰を下ろして待っていると、やがてガラと思われる年老いた女性が家の中からせっかちな足取りで、われわれの方に向かってきた。手にはぼくの作品集を持っている。
「絵描きっていうのは誰? エッ! あんたがそう? 一体あなたがたなにしに来たの?」
そう言われると困った。一体われわれはなにしに来たのだろう。
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「ねえ、わたしと一晩メイクラブする人、誰かいない? どう、返事できる?」
こんな下品で低級なガラの話を聞いているうちに、この女を女神の如く愛しているというダリまで下等な人間に思えてきた。実のところ、このまま帰りたいとさえ思えてきた。
そこへギリシアの古典劇の役者のような格好をしたダリが、奇妙な杖を持って、これまたなにかに追われているような足取りで前につんのめりそうな格好で現われた。如何にも演出くさい出現である。
「えっ! あんたが絵描きかい? あんた『ダリ劇場』見たかい? そう、見た。どうだ、気にいったかい? そう、ダリの絵が好きなの、そりゃいい。ところがあんたはどんな絵を描くのか知らんが、わしゃあんたの絵なんか大嫌いだね」
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ダリの言動の一つ一つが演出的で道化じみている。そんな意味で彼は最も狂気から遠い理性的な人間であることがわかる。
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ぼくはダリとの一時間半の間で実に多くのダリの秘密を見ることができた。また、芸術家の自我ほど自己救済と裏腹に本人にとって危険で恐ろしいものはないと思った。またダリにとっての女神ガラは彼の自我を増殖する悪魔の化身のように見えた。
禅の方でも
「悟ろう」
という意識を捨てなければ悟れない、
と教える。
病気でもそうだが、
「治りたい、治りたい」
という意識がある以上、
自我意識が邪魔して治らないという。
その点、
「寒の地獄」
の時も、
今回の
「釈迦の霊泉」
にしても、
足や頭の痛みのことなど完全に忘れていたから、
かえって効果を上げたのかも知れない。
無心というのはこころを無にするという意味ではなく、
子供のように無邪気になることで、
つまり人間の本来の姿に帰ることらしい。
新潟の東山寺を引き上げた翌日、
桐山密教の桐山靖雄氏に会って、
ひとつ不眠症のカウンセリングをお願いしようということになった。
桐山氏によると不眠症なんてもともとないとおっしゃる。
━━━このことは誰もが言う。
四時間しか眠れないのは、
身体がそれ以上の睡眠を要求していないからだと言われる。
━━━なるほど。
宗教を必要とすること自体人間は救われていない証拠で、
この世界のあり方が間違っているのだ。
「困難にはぶつかっていかなければならないが、
危険は避けるべきである。
この二つを見分けることが重要である。」
(王貞治)
家の角の道路で自動車の衝突事故あり。
このようなことは珍しくなく、
しょっちゅうだ。
魔の四つ角である。
事故が事故を呼ぶのだろう。
この近くに高圧線があるのが事故の原因かもしれない。
きっと磁場が人間の脳細胞を狂わすのだろう。
こんな風に磁場の狂った場所で喫茶店など経営すると
客の回転が早く繁昌するという。
つまり、
人が呼び寄せられ、
入ると落ちつかずすぐ出たくなるからだ。
だから商売によっては
このような場所を利用するのも得策である。
成城で三回目の引越し。
東京に来て二十年になるが住居の移転は七回。
仕事場が四回。
二年に一度ずつ引越している計算になる。
この間、「谷」のつくところが実に多かった。
「青谷」、「渋谷」二回、
「千駄ヶ谷」、「野ヶ谷」、「世田谷」四回、
「祖師ヶ谷」と、
よくもこれだけ「谷」のつく地名ばかりを転々としたものだ。
それもそのはず、
妻の旧姓が「谷」だったのだーッ。
禅の書物を読めば、
ある程度は理解できる。
だが、それでは日常生活の行為ひとつひとつに生きてこない。
そこが大きな違いだ。
禅を知るには座禅以外にはない。
只管打座、黙って坐ればいいのだ。
理屈の世界ではない。
宇宙と合体するには理屈は不必要だ。
理屈をこねまわしている間は、宇宙が掴めない。
ぼくはまだこの域を彷徨している。
「人生はすべて暗示」
(宇野千代)
宇野女史は、
病気の話をする人はきらいだと言う。
病気を愉しんでいるの過ぎず、
そんな連中は永遠に病気から解放されないと。
そういえば、ぼくはこの一年、不眠、不眠と連呼してきた。
「想念は想いのままになる」と一方で言いながら、
その洗礼を受けていたのだから救いようがない。
では、日記を書けばエゴが捨てられるのかといえば、
そうでもない。
時には書くことによってエゴが増幅する。
せいぜい日記のための日記になるのが落ちだ。
日記で自らを反省してみたり、
勇気づけてみたりしても、
ペンが文字を綴っている瞬間だけのことで、
これも単なる自己満足というやつか。
だからぼくはどんな場合でも「私的」でいいと思っている。
よく世間では「私的」なものを一流とみなさない習慣がある。
だけど「私的」というのは生き方の問題だから、
生き方に一流も二流もあるとは思えない。
ぼくは所謂、自分にしか興味がない。
<レビュー>
サルバドール・ダリを見た日の事に始まり、不眠、禿、蟻、ナメクジ等、卑俗な日常の瑣事から発想して魂の根源に至らんとする、あるいは眠られぬ夜に永劫の輪廻転生を想い絶句する。〈至福千年王国〉を夢見て限りない自己への旅を続ける芸術家が、わななく心の軌跡を2年間にわたって微細に綴った思索的エッセイ。